oyoyo Memo Blog

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「国民主権」や「天皇主権」を信奉する人々

書こうとすることがあまりにも多すぎる場合は、何をどう書けばいいのかと考えて捗らず、加えて、書くのは頭の中を整理した後でなければとの思いが横槍を入れ、にもかかわらず頭の中の整理に目処が立たず、またもや日数が経っていく。


憚りながら小生が某所に書いたものを転載。


天皇陛下の御位が「主権の存する国民の総意に基づく」などという­「国民主権論」が土台の、即ち國體破壊の革命思想の猛毒・魔毒を­主成分として含有する日本国憲法は、日本国の憲法として無効であ­る。真正の保守であるならば、純正の日本人であるならば、そのよ­うな日本国憲法を如何に弄くり回して改正しても、「国民主権論」­「國體破壊の革命思想」という猛毒・魔毒を除去することは無理で­あることを、これまでの各自の猛省も含め、謙虚にかつ猛烈に認識­せねばならない。そして、大日本帝國憲法(明治憲法)が、いま我­々の頭上に確かに現存していることを猛烈に認識せねばならない。­日本国憲法改正は日本の保守の思想に非ず、反日の思想である。



昨今の「女性宮家」なるものや、「女系天皇」なるものの着想が、いったい何処なる思想の土台から生起してくるのかと考えると、そこにあるものは、その土台を構成する主成分たる「国民主権」という「金科玉条のご本尊」についての、「おだやかでふんわりとした信頼」でありながらその実、「国民主権」への絶対的信念ないし確信、ないし無批判的信奉ではないかと思います。そして、そのような國體破壊の革命思想に「さあ、どうぞ、どうぞ、その通り!」とのお墨付きを与えているのが、その「ご本尊」が安置されている「金科玉条」たる「日本国憲法」であります。

「女性宮家」とか「女系天皇」なる件の論議に潜む「国民主権」の思想とは何か?

皇位の継承順位も、御皇族を構成される方々の選定も、御皇族を構成される方々のその構成員としての資格の有無や度合の判定も、主権者様たる私たち国民様やその代表者様による「投票」や「多数決」で決定できるのです、というものです。

そして、主権者様たる私たち国民様やその代表者様による「投票」や「多数決」で決定したことについて、何人たりとも逆らってはなりません、というものです。

皇紀二七〇〇年の歴史や伝統、慣例やしきたりと、現在に生きる主権者様たる私たち国民様やその代表者様による「投票」や「多数決」で決定したことの間で競合や背反が生じた場合、後者の決定ほうが優越します、というものです。

そしてそこでは、法の支配に基づく原状恢復の法理は、議論の蚊帳の外に放置され、ゆめゆめ視野に入れさせまいとの、執念にも似た狂気の空気が供給され続けているのです。まさにいまの日本であります。


ここでいう「主権」とは、すなわち「主(あるじ)の権」=「事実上の無制限かつ無限大の権限」であり、「主(あるじ)」と言う以上は、そこに「主」と「従」、「主人」と「従人」、「支配する者=権利の人」と「支配される者=義務の人」の区分が社会には「既に在るもの」との推認が了解事項になっているわけです。いわゆる「階級闘争」などと言ったときの「階級」を想起する赤い思想の糸が、この「主権」という言葉には織り込まれているのです。

したがって、この「主権」を信奉する者、布教したい者にとっては、「主」と「従」、「主人」と「従人」、「支配する者=権利の人」と「支配される者=義務の人」の区分が、社会には「既に在るもの」でなければならず、たとえば、歴史を認識するにあたっても、常に「主」と「従」、「主人」と「従人」、「支配する者=権利の人」と「支配される者=義務の人」の区分を念頭に置かなければならないものだと捉えており、また、そうした区分がはっきりしないようならば、それは人間社会の歴史ではないとすら、考えているのかもしれません。

しかしながら、欧州や南北アメリカ、はたまたロシア、支那、朝鮮においてはいざ知らず、國體すなわち日本においては、そのような異邦において見られてきたような「主」と「従」、「主人」と「従人」、「支配する者=権利の人」と「支配される者=義務の人」の区分というものは、極力戒めて排除してきたのであって、さもなければ、皇紀二七〇〇年も続くはずがなかったのであります。幾ら皇基(=国家の基盤)に恵まれていたとしても、せいぜい何百年間かそこらを維持するのがやっとで、日本は千数百年以上前のとっくの昔に亡くなっていたでしょう。

ならば、この「主権」を信奉する者ばかりで国民が構成されるとき、日本は亡くなるのかもしれません。

そういうふうに考えるならば、この「主権」思想というものは反日思想である、非國體思想である、と少なくとも疑ってみなければなりません。それをせずして、「国民主権」を信奉し、擁護し、方やその同じ脳で「國體護持」を唱えたり、国益を論じたり、御皇室のことを案じたりするという、この分裂症ともいうべき多重人格症状に気付くことはできないでしょう。


こういうふうに「国民主権」という空想を根絶しようとすると、必ず出てきそうなのが「ならばオマエは天皇主権論者か!」などと低知脳な発想をする輩です(俗に「ブサヨ」、「リベラル」、「お左翼」、「地球市民系の人々」など)。

答えを言っておくと、天皇主権論は国民主権論の対極にあらず、国民主権論に続く階段の踊り場にあり。つまり、別物ではなく、ひと連なりの空想階段であります。よって「国民主権」の根絶を遂行することは、「天皇主権」という空想(=非國體思想)の根絶も同時に進行することになります。

「国家主権」はあります。しかし、「国家における主権」など、どこにもない、というのが正解です。

そして一方、日本国憲法の無効論を展開すると、必ず出てくるのが「今のケンポウには昭和天皇の御名御璽がある。オマエはそれを無視する不忠者か!」などと、これまた低知脳な発想をする輩です(俗に「ネトウヨ」、「バカウヨ」、「自称保守」、「民族系の人々」など)。最近は、はっきりいって、こっちのほうが腹が立つ。

オマエはこの動画を観よ!
承詔必謹論の誤用例/天皇主権説のエセ保守おじさん - YouTube
KENNMU75 さんのチャンネルから毎度勝手に引用させていただいております。


上の動画にもあるように、憲法の従来の議論や講釈において、もはやその対症療法の限界に来ていることは、よほどのアホを別として、誰の目にも明らかであります。

そして、いかなる政治課題であれ、政策であれ、外交であれ、日本国憲法の憲法としての無効性を直視しない限り、必ずブレます。間違いなくどこかでブレます。そしてそのブレを矮小化したり、はたまたブレがブレでないように取り繕うために、対症療法という麻薬に手を出すことになります。一度ついたウソを擁護するために、つぎからつぎへとウソ・ウソ・ウソをつき続けるに似たり。日本は、日本人は、自分で自分を窮地に追いやっているのです。支那や上下朝鮮、在日朝鮮人やロシアや国際金融暴力団から、やられ放題に小突かれている現状の根本原因はここにあります。「核兵器を持っていないから」でもなく、「日本国憲法9条があるから」でもないのです。

戦後60余年に亘って続けてきた対症療法(麻薬)をまだこの先も続けるというのか!


機は熟しました。チャンネル桜は、「闘論!倒論!討論!」で「保守を問う!國體と日本国憲法と新無効論」を実行しなければなりません。いや、「闘論!倒論!討論!」において、いまやシリーズ化している「経済討論」と同様、「憲法討論」・「國憲討論」を月1回程度のペースで何回も何回も継続的に実行し、チャンネル桜の視聴者に対して、保守=護國=覚悟の程を問わねばならないのであります。

【司会】 水島総
【ゲスト出演者の例】
渡部昇一 西村真悟 南出喜久治 西田昌司 土屋たかゆき
西尾幹二 西部邁 櫻井よしこ 青山繁晴 竹田恒泰
(以上敬称略)

ゲスト出演者のうち、下段にご芳名を記した方々は保守メッキの剥がれる惧れが高い方々です。てか、もう剥がれてる人もいらっしゃるか。縄をつけて引きずり出してでも出演させなければなりません。






【同類エントリ・参考エントリ】

エセ保守・リベラルな自民党と、憲法改正という「戦後レジーム脳症」
http://oyoyomemo.blog7.fc2.com/blog-entry-104.html

いまのところ、青山繁晴氏は「日本国憲法有効論者」と思われる。
http://oyoyomemo.blog7.fc2.com/blog-entry-119.html




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