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【要注意】 石原慎太郎氏にみる、日本国憲法「エセ無効論」

ポイントは、日本国憲法を憲法として破棄するか、日本国憲法を講和条約として破棄するか、であります。前者は「日本国憲法エセ無効論」ないし「日本国憲法無効論モドキ」、後者が日本国憲法の真正無効論(講和条約説)であります。実は、ここには真正自由の道を問う、真正の哲学を問う分岐点が現れています。この客体化されきったかのような世界において、一つの束のような、特別明るくもなく暗くもない光がその分岐点とその周辺を照らし出しています。前者は「亡国の道」・「敗戦の道」、後者が「護国の道」・「祭祀の道」であります。

【日本よ】石原慎太郎 歴史的に無効な憲法の破棄を

(前半略)

それは憲法改正などという迂遠(うえん)な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない。

敗戦まで続いていた明治憲法の七十三条、七十五条からしても占領軍が占領のための手立てとして押しつけた現憲法が無効なことは、美濃部達吉や清瀬一郎、そして共産党の野坂参三までが唱えていた。

思い返してみるがいい、敗戦の後占領支配された国家で、占領支配による有効な国家解体の手立てとして一方的に押しつけられた憲法なるものが独立を取り戻した後にも正統性を持つ訳がどこにあるのだろうか。前文からして醜く誤った日本語でつづられた法律が、自主性を取り戻した国家においても通用するといった事例は人間の歴史の中でどこにも見当たらない。「破棄」という言葉はとげとげしく感じられもしようが、要するに履きにくくなって靴ずれを起こす古い靴を捨てるのと同じことだ。

今の憲法が一方的に押しつけられた時の挿話を思い出してみるがいい。原案を持ち込んだ司令部の幹部たちがためらう日本側の代表に判断のための時間を短く限り、その間我々は原子力の恩恵を太陽から受けながら外で待つ、つまり日向ぼっこをしている間に決めろと、原子爆弾を想起させる台詞で脅してことを決めたのだった。

我々がこの国を平和の内に自らの手で守りぬくための、この現代における有効且つ可能な手立てを阻害している浮薄な平和渇仰のセンチメントは捨て去り、「天は自ら助くる者をのみ助く」という人間社会の公理を体現するためにも我々は我々自身を破滅の隷属に導きかねぬ現憲法という手枷(てかせ)を自ら外して捨てる決心をしなくてはならぬ時に違いない。

それを考えるのは一部の政治家ではなしに国民自身が我がこととして考え、政治家に強いるべきなのだ。

(2012.03.05 03:07 MSN産経)


「道州制は百年河清を俟つ話」 石原都知事

石原慎太郎東京都知事は9日の記者会見で、大阪維新の会が訴えている道州制実現について「道州制は言うのは簡単だが、できない。今の国会で直すのは百年河清を俟(ま)つ話だ」と述べた。憲法改正についても「そんなことでは永久に憲法は直らない。占領軍が作って押しつけたあの憲法を、政権が『無効だ』と言って新しい憲法を作ればいい」と持論を展開した。

(2012.03.09 17:54 MSN産経)



>要するに履きにくくなって靴ずれを起こす古い靴を捨てるのと同じこと

凡そ「靴ずれ」というのは、履き慣れていない新しい靴を履くことによって起こる現象で、約70年前に日本国憲法という「新しい憲法」を履きだしてから「靴ずれ」を起こしていると言うのならば、原状回復の法理から大日本帝國憲法の現存確認が先ず導き出されなければならないのであります。古くなったから「靴ずれ」を起こしているのではなく、「新しい憲法」を履いたから「靴ずれ」を起こしているのであります。


石原氏のいう「破棄」は、憚りながら小生の愚察としては、「憲法として破棄」を意図するものではなかろうかと、すなわち、改正論の一種たる、いわゆる「自主憲法制定論」の類のように窺えます。つまり、「破棄」→「自主憲法制定」というものではないかと観ます。「21世紀版・自主憲法制定」のための「破棄」であり、その視野には大日本帝國憲法の現存は、いささかも入っていません。まぁ、もっとも「大日本帝國憲法は軍国主義の悪い憲法だ」などと頭のどこかで思っている可能性はあります。

「憲法として破棄」ならば、これは有効論にほかならず、真正の無効論とは正反対、というか別世界に位置します。「憲法として破棄」の場合、「では、いったい如何なる法理に基づいて破棄するのですか?」と突かれてしまえばもうおしまいです。もうおしまいにもかかわらず、なおも抵抗を続けた先に出現するのは「国民主権論」(=自称「保守」・営業「保守」に多い極左思想)か、「理知万能論」(左翼思想)か、それとも「民族情緒論」(右翼系小児思想にして反米英系)、はたまたそれらの混声合唱団です。「憲法として破棄」の場合、これはすなわち戦後体制内の言語空間における憲法論議の延長戦にほかならず、多少言い方を変えると、「戦後体制の湯」ないし「占領憲法の湯」というお風呂のお湯加減が「いよいよマズくなってきたので沸かし直しましょう」という、「戦後体制の湯」「占領憲法の湯」の「沸かし直し」であります。「憲法として破棄」=「全面改正論」であり、部分改正論との違いは、お湯の全部を沸かし直すか、お湯の一部を沸かし直すかにすぎません。沸かし直したところで、日本国の憲法としての正統性が突然ポコッと出現するわけではないことに気付かねばなりません。勢い、「今生きているわたしたちや、わたしたちの肉眼に映るこどもたちが幸福であれば充分です」という幸福主義的社会主義と妥協するのは、ただ時間の経過に委ねられます。

「自由」すなわち「真正自由」を追求する道と、「幸福」を追求する道は対立します。議論の分野は若干異なり、やや余談めいて聞こえるかもしれませんが、ここのところを小生がいま(というか、いまごろ)読んでいる、中川八洋氏の新著『脱原発のウソと犯罪』のなかのひとつの文脈(p158、p159)に関連させて申せば、「自由」すなわち「真正自由」を追求する道は「安全」を追求しますが、「安心」を追求しません。対して、「幸福」の実現を追求する道は、教義として「安心」を追い求めます。

「自由」すなわち「真正自由」を追求する道が「安全」を追求するのは、臣民の生来の義務が自生的な意識のなかに備わっているがゆえであります。対して、「幸福」の実現を追求する道は、教義として「安心」を追い求めるがゆえに、客体化された世界における普遍の人間の権利をわずかばかりの理知の助けを借りて主張します(わかりやすい例:在日朝鮮人の主張など)。客体化された世界における人間の権利(普遍的人権や国民主権や天皇主権等)を主張する者は、理知万能論や設計主義的合理主義などの左翼思想にほぼ全くと言っていいほど対抗できず、対抗するどころかそれらを迎合・礼賛し、それらがひたすら増大するのを助長します。現在の日本は、在日朝鮮人に限らず、「幸福」や「安心」を追い求める信者や「有識者」で溢れています。一億総「幸福教」信者、一億総「安心教」信者。だから、民主党のような政党が従来から幅をきかせ、それがたった一回の選挙で政権を獲得でき、政権獲得後は、日本国民にとってすべきことをせず、日本国民にとってしなくてもよいことや有害なことほど教義的熱心さを伴ってしようとするわけです。

話を戻します。対して、「講和条約として破棄」ならば、「ではなぜ日本国憲法は講和条約なのですか?」という問いとその問いに対する答えが必然の経由地となり、これは大日本帝國憲法の現存の認識をもって真正の無効論、すなわち日本国憲法講和条約説となります。これは、今および今以後に生きる臣民はもちろん、かつて生き、かつて悩み、かつて悲しみ、かつて苦しんだ全ての臣民、さらには國體を包括して、われら共に生きているんだとする、真正自由の道(祭祀の道)を歩む決意を大音声で肯定するものであります。こちらは真正の哲学に満ち溢れています。靖国に参拝する資格のある人の道はこちらであり、「今生きているわたしたちや、わたしたちの肉眼に映るこどもたちが幸福であれば・・・」などという道やそれを匂わせる誘いを本能の力によって拒絶し、場合によっては排除します。


石原慎太郎氏の憲法無効論についての認識は、たとえば平泉澄氏、三島由紀夫氏、それにチャンネル桜の水島社長の認識程度でしかないように拝察いたします(平泉澄氏と三島由紀夫氏については、エントリの機会があれば別に述べます)。彼らの認識とは、いわゆる民族系の認識であり、(保守の)哲学に乏しすぎ、Conservative Minds はほぼゼロ。ある人物やある団体・組織が「(保守の)哲学に乏しすぎ、Conservative Minds はほぼゼロ」というのは、共産思想保有者(ないし反日工作者)に付け入る隙を店頭に並べて提供してあげていることと実質的には同じことであります。たとえば、チャンネル桜の彼此の番組の出演者に共産思想保有者(装いは「保守系!」)が入れ替わり立ち代り登場する、あの現象は、水島社長を筆頭者として構成されるチャンネル桜という組織それ自体の「(保守の)哲学に乏しすぎ、Conservative Minds はほぼゼロ」の核心(根っこ)から浮上ないし派生してくる表面の様相(葉っぱ)と捉えるべきなのかもしれません。

概して、左翼以上に真正自由の道、真正の哲学を忌避したがる(判ろうとしない?)のが民族系の常であります。「無効」というコトバだけ捕まえて、真正の無効論とは異なる「『無効』論」という大日本帝國憲法蹂躙の「21世紀版・自主憲法制定論」を普及させようとする動き(ボディ)が出てくることは、小生にとっては少なくとも3年以上前から想定内のことであります。





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