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【国家を滅ぼす方法】 オルテガの『大衆の反逆』は名著、ただし...

 オルテガ 大衆の反逆 (桑名一博訳 白水社 ISBN4-560-01852-9)

またなんか書きます。

オルテガの『大衆の反逆』は名著。
ただし翻訳者による。
というか、およそ名著(より正確には名著の翻訳本)というものは、その読者を選ぶ前に、翻訳者を選ぶものである。

ローマ帝国は超デモクラシーで滅んだ。
そこには、いまの日本に類似しているところが多々ある。否、あり過ぎる。
国家を滅ぼすには兵器は要らない。国家を滅ぼすにはその国家内臓の超デモクラシーの欲求を用いるのが最も効果的である。

学歴さえあれば、資格さえあれば、そして法律によるお咎めがなければ、誰でも(アホ未満でもチョンでも部落民でもヒトモドキでも)その職業(医者、政治家、議員、弁護士、公務員、教員、大学教授、軍人、警官など)や一定の地位に就ける、というのは問題である。

学歴や資格は出生後に本人の努力やその他の支援によって獲得可能なものであるから、法律によるお咎めがなければ、アホ未満でもチョンでも医者にも大学教授にもなれるし、部落民でも政治家になれるし、軍人にもなれる、教員にもなれる。場合によっては誰でも貴族にも皇族にもなれる。これが問題である。否、これこそが問題なのだ!

ところがそういうことを言うと、「差別だ!」「封建主義だ!」「身分制度の復活だ!」「平等に扱え!」「人権侵害だ!」などと返答される。そういう返答や反応の発心こそが問題なのだ! それこそが日本の病苦であり、悩みの、まさに種なのではないのか。

本当に心身のどこかに何らかの痛みのある人は、神々や一見して痛みの無さそうな人に対して「差別だ!」「平等に扱え!」「人権侵害だ!」などと言うだろうか。
そう言われたところで、そしてその心身のどこかに何らかの痛みのある人に対してどんなにお金やお供え物を積み上げ続けたところで、その人の(あるいはその民族の)痛みを無にすることはできないのである。

差別はあって当たり前!
考えてみてください。
若くてかわいい女の子と、ブスやオバサンを差別しないようになんてことはできない。差別こそが本能の源である。
若くてかわいい女の子がなぜモテるのか。それは優生の子を産む可能性が高いからである。優生なる子孫を残したいと思うのは、差別ではない、本能である。ブスを選ぶのは最善が無理な場合の次善の策である。オバサンを選ぶというのは、もはや絶望に近い。オバサンというのは、優生の子どころか、そもそも子を産む生物学的能力の有無すら怪しいのである。
差別に対して区別は理知的なものである。区別は理知には必要であるが、本能の源にはならない。

封建主義上等!
封建主義こそが社会ある姿であり、封建主義こそが秩序の表れである。
優生でもない、武門でもない、アホ未満や部落民、商人、町人、ヒトモドキが政治をやってはいけない。

身分制度の復活は、封建主義の回復に概ね等しい。「復活」は正しくは「原状恢復」である。

平等?
知らないのなら教えてあげよう。
平等とは有って無いものである!
無いものを有ると抗弁するのは、占領憲法(自称:日本国憲法)に日本帝国の憲法としての正統性(しょうとうせい)があるとしてその「護持」や「改正」を主張している連中でお馴染みである。
有るのは不平等である。
現に、これを書いている私と、これを読んでいる貴方は、全く不平等な者どうしではないか。多少、気が合うことはあっても、また、気が合うことが無くても、二人は平等にはならない。ありとあらゆる点において、二人は不平等である。

人権?
それは劣生なモノたちの造語である。「平等」を言い換えると「人権」になる。

てなことが、『大衆の反逆』に書かれているわけではありません。

いまや公衆は数を減らし、大衆があちらこちらに溢れている。
公衆電話がその数を減らし、大衆電話(スマホ!)があちらこちらで幅を利かせているのだ。

 (広告対策のつもりが少々長文になった。)



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