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国学の系譜、帝國憲法の統(すじ)

このエントリは、過日の 保守の哲学 「本居宣長 直毘霊(なおびのみたま)」 の続編の一片。

 本居宣長   井上毅(いのうえこわし)   陸奥宗光
 画像は左から順に本居宣長、井上毅(いのうえこわし)、陸奥宗光。
 本居宣長の画像は 本居宣長記念館HP より、
 井上毅と陸奥宗光の画像は 国立国会図書館HP より拝借。


本居宣長の認識(『うひ山ぶみ』)によれば、国学(古学)の学統は
「契沖─荷田春満─賀茂真淵─本居宣長」
と受け継がれてきたということです。

古学の輩の、古学とは、すべて後世の説にかゝはらず、何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる学問也、此学問、ちかき世に始まれり、契沖ほふし、歌書に限りてはあれど、此道すじを開きそめたり、此人をぞ、此まなびのはじめの祖(オヤ)ともいひつべき、次にいさゝかおくれて羽倉ノ大人、荷田ノ東麻呂ノ宿祢と申せしは、歌書のみならず、すべての古書にわたりて、此こゝろばへを立テ給へりき、かくてわが師あがたゐの大人、この羽倉ノ大人の教をつぎ給ひ、東国に下り江戸に在て、さかりに此学を唱へ給へるよりぞ、世にはあまねくひろまりにける、大かた奈良ノ朝よりしてあなたの古ヘの、もろもろの事のさまを、こまかに精(クハ)しく考へしりて、手にとるばかりになりぬるは、もはら此大人の、此古学のをしへの功にぞ有ける、

本居宣長記念館本居宣長著作原文資料『うひ山ぶみ』 より。



そして宣長以降、この学統は宣長の養子や弟子、さらにそのまた養子や弟子らを経て、大日本帝國憲法ならびに皇室典範の起草者である井上毅や、不平等条約の改正に尽力した陸奥宗光らの政治実務家へと接続していきます。

国学(古学)の統(すじ)をただ静かな学理ないし学者の統としてではなく、法制や政治の実務に繋がる國防性や戦闘性を有する統として認識し始めることができれば、国学(古学)とは國體護持の実践哲学である、あるいは真正の保守の思想に違わぬ哲学の統であるという、より大きな認識が明らかになってくるように思います。


【一】 国学の系譜と典憲起草の井上毅との接続について、その最小量の「点と線」のメモはつぎのようになると考えられます。

契沖
1640年(寛永17年) - 1701年3月4日(元禄14年1月25日)
契沖 - Wikipedia
契沖とは - 契沖研究会ブログ
  │
荷田春満
1669年2月3日(寛文9年1月3日) - 1736年8月8日(元文元年7月2日)
荷田春満 - Wikipedia
京都の社寺 東丸神社 あずままろじんじゃ
  │
賀茂真淵
1697年4月24日(元禄10年3月4日) - 1769年11月27日(明和6年10月30日)
賀茂真淵 - Wikipedia
賀茂真淵について|賀茂真淵記念館
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本居宣長
1730年6月21日(享保15年5月7日) - 1801年11月5日(享和元年9月29日)
本居宣長 - Wikipedia
本居宣長記念館
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本居大平
1756年3月17日(宝暦6年2月17日) - 1833年10月23日(天保4年9月11日)
本居大平 - Wikipedia
本居大平 - 本居宣長記念館
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本居内遠
1792年(寛政4年2月23日) - 1855年(安政2年)
本居内遠 - Weblio辞書
本居内遠 - 本居宣長記念館
  │
小中村清矩
1822年1月22日(文政4年12月30日) - 1895年(明治28年)10月11日
小中村清矩 - Wikipedia
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池辺義象(小中村義象)
1861年11月5日(文久元年10月3日) - 1923年(大正12年)3月6日
池辺義象(小中村義象) - Wikipedia
  │
井上毅
1844年2月6日(天保14年12月18日) - 1895年(明治28年)3月15日
井上毅 - Wikipedia


こうして見ると、だいたい30歳ずつ歳が離れているのが判ります。すなわち学統を継ぐ弟子が仮にいま20歳ならば先生は50歳ぐらい、その弟子が30歳になれば先生は60歳ぐらいということになります。

池辺義象は井上毅の助手ないし秘書で、二人は肥後国(熊本県)出身の同郷人同士。系図では池辺義象の次に井上毅と一応しましたが、井上毅のほうが年長者であります。

井上毅は大日本帝國憲法、皇室典範、教育勅語、軍人勅諭の起草者。たとえば、帝國憲法の起草は井上毅を含む数名の合作のように言われることがありますが、そのほぼ一切は天然かつ真正の秀才・井上毅の筆であります。典憲のみならず、現在に至る日本の行政組織全般についても、井上毅のグランド・デザインが下地になっています。彼は国学(古学)に通じるのほか、欧州諸国の法制度や、当時の列強の軍組織の詳細な体系を調査、記録したりもしています。

若干余談ではありますが、『帝國憲法 皇室典範 義解(ぎげ)』は伊藤博文の名で出版されており、ネット上においてもそれは伊藤博文が書いたものであるとの認識が普及しているように思います。しかしながら、そうではありません。『帝國憲法 皇室典範 義解』もそのほぼ一切は井上毅の筆であります。なお、この『帝國憲法 皇室典範 義解』は岩波書店から文庫版で復刻的に出版されたことがありますが、岩波の手にかかると書名も『憲法義解』と編集されます。小生から見れば、これは書名の「改ざん」であります。原典の表題は『帝國憲法 皇室典範 義解』であり、「帝國憲法」の文字と「皇室典範」の文字が縦書きで同格に並列され、その下に「義解」とあります。

いま、この日本には、皇室典範が憲法と同格であるのは適切ではない、憲法の下位に皇室典範がなければ何やらの具合が悪い、などと思っている連中がウヨウヨいます。そういう連中のことをしばしば「保守派」とか「保守系」などと呼んだり見做したりするのが、これまた「保守派」や「保守系」の大部分を構成する人々の知脳発育水準であります。

日本国憲法の改正や占領典範の改正を提唱し、はたまた「新たな自主憲法の制定」を言い出す一方、その同じ脳で、拉致被害者の救出を訴えたり、「戦後レジームの打破」を語るエセ保守、自称保守、売文保守、自称愛国者、自称憂国者。すなわち、片一方で原状回復を黙殺し、斥け、あるいは嘲笑し、もう片一方で原状回復を真顔で訴えるという多重人格症状を露呈しておきながら、ニコニコしていたり、実直そうな顔をしている連中であります。「新たな自主憲法の制定」と「戦後レジームの打破」に親和性や方向同一性があると本気で信奉しているアホが多すぎ。あるいは、帝國憲法蹂躙、皇室典範蹂躙(正統典範蹂躙)という犯罪活動に参加している自覚のない連中が、北朝鮮による拉致事件という他者の犯罪を糾弾する構図、わかりますか? そうした自覚のない、その程度の連中の言い分など、米・露をはじめとする連合国や北朝鮮の当局がマトモに相手にすると思いますか? その連中にありがちな肩書きは大学教員、評論家、解説委員、コメンテーター、作家、シンクタンクの経営者か構成員。まぁ、この連中の騙しと売国の術は、昨今はやりの振り込め詐欺の犯人たちでさえ真似できない凶悪レベルと言うべきではないでしょうか。小生はそのように観ています。

少なくとも日本国民自身による帝國憲法蹂躙・皇室典範蹂躙(正統典範蹂躙)の状態を日本国民自身が自力と自助で解消しなければ、拉致事件の解決も、領土問題の解決も、望むべくもないのであります。自立なき、自律なき、自助なき国家に、真正自由の保養や醸成のための十全な場所はなく、交戦権(外交の自由と権利、外交のフリーハンド)もないのです。

余談ついでに、岩波の『憲法義解』には、アノ宮澤俊義の、なくても良い、というか、ないほうが良い「はしがき」が付いております。この法学者としての気品やプライドのカケラすら感じさせない、ドーしょーもない「はしがき」が、岩波の出版であるというそもそものスジの怪しさともあいまって、原典であるところの『帝國憲法 皇室典範 義解』の崇高なる文化的歴史的価値を大きく毀損しているように思われてなりません。あるいは強いて文芸としてみた場合の表現性においても、公衆便所におけるある種の「落書き」のほうが、宮澤の「はしがき」をはるかに上回っているやもしれないのであります。

原典の『帝國憲法 皇室典範 義解』は大日本帝國憲法の発布と同じ年の明治22年に国家学会という組織から刊行されており、この国家学会(創価学会じゃないですょ)は現在の東京大学と縁のある団体であります。その後、丸善などからも幾度か刊行されたようです。

◆『帝國憲法 皇室典範 義解』は、国立国会図書館 近代デジタルライブラリー で閲覧可能です。


まだまだ続きます↓↓↓↓


【二】 本居宣長から、井上毅と同世代のもう一人の政治実務家、陸奥宗光に繋がる系統

本居宣長
  │
本居大平
  │
伊達千広
1802年6月24日(享和2年5月25日) - 1877年(明治10年)5月18日
伊達千広 - Wikipedia
  │
陸奥宗光
1844年8月20日(天保15年7月7日) - 1897年(明治30年)8月24日
陸奥宗光 - Wikipedia


伊達千広には 大勢三転考 という主著があります。読みは Wikipedia にあるように「たいせいさんてんこう」でも可なのかもしれませんが、小生は「たいせいみうつりこう」と覚えています。國史における大まかな時代区分について、同様な区分を抱いていた小生としては、この大勢三転考の「骨(かばね)」「職(つかさ)」「名(みょう)」の区分を別の歴史書で知ったとき、意外なところから味方が現れたような思いがしたのとともに、「やっぱ、この認識だよネ」みたいに思いました。そもそも、國史を大まかであれ適当であれ通読してみて、こうしたマクロな区分やフローが浮かんで見えてこない人々の視座のほうがオカシイのではないかと思います。

陸奥宗光は当時の日本にとって国家的宿題であった治外法権の撤廃に尽力し、米、英、独、仏など、当時の列強をはじめとする諸国との間で不平等条約の改正を実現。また、日清戦争後の「露・独・仏」と「米・英」の日本に対する態度の差に鑑みれば、この不平等条約の改正が成っていたからこそ、爾後、日本の国家としての親米英度はむしろ高まり、そして、だからこそ日露開戦が出来たのだ、との観察も可能であるように思います。100年以上を経た今に至っても最高知脳の外務大臣であろうと思われます。

先の井上毅についても、陸奥宗光についても、米国の偉人でたとえて言えば、ザ・フェデラリストアレキザンダー・ハミルトンに相当するようなイメージを小生は持っています。しかしながら、日本におけるその後の保守哲学の「やせ細り」ないし衰亡ぶりを考えてみると、井上毅も陸奥宗光も50歳を少し過ぎた頃にこの世を去っていることが実に悔まれます。あと20年か25年、長生きされていれば、彼らに影響を受けて彼らの哲学を継受する、あるいは本居宣長を中心とした日本の国学(古学)と英米系の保守哲学の両方を照らし合わせながら継受する、賢哲な弟子が1人か2人はあったかもしれないからです。政治学者ではなく政治実務家であるご両人にとって、それまでは弟子を身近に置いたり、通わせて学問上の面倒を見たりといった暇も考えもおそらくなかったでしょう。井上毅も陸奥宗光も、西暦でいえば同じ1844年に生まれ、明治28年(1895年)と明治30年(1897年)に亡くなっています。


【三】 そして、『国学(古学)とは國體護持の実践哲学である、あるいは真正の保守の思想に違わぬ哲学の統である』という認識だからこそ、昭和の前半の国家的危機の最中の実務において、天皇主権論者や民族系共産主義者などの右翼(=非國體思想の極左にして反米英系)と対峙された御二方を、ここで挙げておきたいのです。

昭和天皇 昭和天皇 - Wikipedia

吉田茂 吉田茂 - Wikipedia


真正の保守の政治を実現するためには、それを志す政治実務家も、その後援者や支持者も、以上に挙げた先達が所属し継受してきた国学(古学)の統に、いまこそ接続しなければならないと思います。

この哲学の学統を継受し、昭和天皇の天才性と臣民の命を繋がれた御聖断をいまに生きるもの、現存するものであるとして敬服できる人物、かつ、井上毅と陸奥宗光と吉田茂を足し合わせたような人物が、真の意味においての大臣かその補佐役として複数出現しないのであれば、日本の衰亡はおそらく既定路線とならざるを得ないと思います。そしてそのような人物は、もはや東京大学を頂上とする「日本社会主義人民養成学歴システム」からは輩出され得ないと見るべきではないのかと。というか、くれぐれもそのような「恐ろしい」人物が輩出して「極真保守政権」が誕生したり、真正大日本が出現しないようにするために、「日本社会主義人民養成学歴システム」があるのだと考えるべきではないのかと思います。

連合国(妄信的通称:国連)からすれば、ジャパンごとき国の総理大臣にはルーピー(クルクルパー)鳩山、朝鮮系の市民活動家であるカン・チョクト、あるいは財務省を飼い主とするその家畜であるところの野田某のような、少なくとも政治・経済に関しては一般国民以下のレベルの低知脳保有者がきっと相応しいのでしょう。ならば、連合国(妄信的通称:国連)が阻止したい回避したいと考えているのは、日本における「極真保守政権」の誕生であり、真正大日本の出現なのかもしれません。あるいはそのあたりにおいて、印象「左」にして看板「共産」「反米」の支那の対日当局の思惑と、印象「右」にして看板「新自由」「反共」の米国の対日当局の思惑には相同性があるのかもしれません。そして多少のイジメに遭ってでも端くれ的立場でもよいからその相同性クラブのメンバーでいたいというのが目下、竹島(松島)を不法占拠している南鮮であり、これは朝鮮生来の事大主義丸出しであります。

そして、そうした海外の陣営に多かれ少なかれ媚び従う傾向を示す反日日本人もまた、昨今はやりのところで申せば、占領憲法改正(あるいは「新しい自主憲法」制定)やTPP参加推進を唱えるという方法をもって、日本における「極真保守政権」の誕生を忌避するサインを知ってか知らずか発しているのです。この、日本人自身が日本における「極真保守政権」の誕生を、真正大日本の出現を忌避していることこそが、日本が国の内から外からしばしば「半人前扱い」や「小人(しょうじん)扱い」を受ける根本の要因ではないのかと思います。見透かされていると言ってよろしいでしょう。日本側のこのような精神状態では、たとえば北方領土(千島、樺太)に関する交渉において日本の国益に合致する正当な交渉ができる見込みはゼロ。ロシアの当局にしても、そのような状態の日本を本気で交渉相手にする必要など、どこにもないのです。

反日日本人のうち、経済モドキ政策においてはTPP参加推進に賛同し、憲法モドキ論議においては日本国憲法の改正(あるいは「新しい自主憲法の制定」)を進めたがる人々の正体は、「新自由主義」や「国民主権論」というイデオロギー(=主義、教義)を多かれ少なかれ信奉する人々(=信者)。TPP参加が経済の供給能力を(将来の経済環境の変化に対応するはずの供給能力をも含めて)低下させるであろうにもかかわらず、それでもTPP参加が正しいのだとする、少なくともその結論は彼らの脳内では最初から成立しているのでしょう。日本国憲法の改正(あるいは「新しい自主憲法の制定」)が、「法の支配」の「法」よりも人間の意思や理性が上にあるとする遵法精神ゼロ(=祖霊無視思想)を公言・流布する行為であるにもかかわらず、それでも日本国憲法の改正(あるいは「新しい自主憲法の制定」)が正しいのだとする、少なくともその結論は彼らの脳内では最初から成立しているのでしょう。目下、幅をきかせている「国民主権論」と「新自由主義」。朝日新聞も産経新聞も読売新聞も自民党も民主党もNHKも創価学会(公明党)も「維新の会」のハシシタもみんなの党も大方の政治学者も経済学者も、この「国民主権論」と「新自由主義」のセットが好きなようです。

イデオロギー護持のためなら、占領憲法の改正によって大東亜戦争の思想戦を今後も継続し、子や孫に「ウソつきになれ」「不正直になれ」「理性を信仰しろ」と強迫することになってもそれはやむを得ない、子よ孫よ我慢して従ってくれと考えている連中(=子孫虐待思想)。そのくせ、子や孫に対し、しばしば道徳やルールやマナーの重要性を語る。そしてそれほどの矛盾さえも、イデオロギー護持に由来するものならば、あまり問題にすべきではないとする。まことに占領憲法の改正(あるいは「新しい自主憲法の制定」)を提唱するという行為は、遵法精神ゼロにして祖霊無視思想を保有していることの証拠であり、かつ理性信仰にして子孫虐待思想を内に秘めているからこそできる業なのであります。占領憲法の改正(あるいは「新しい自主憲法の制定」)を提唱する連中が靖国に参拝するという行為が、英霊に対して一体どれほどの冒涜かということです。

反日日本人にとっては、政治・経済のおよそ一切のことは、何らかのイデオロギーという「度」の入ったメガネを通してでないと見えない、読めない、判らない、語れないのであり、また、そのイデオロギーという「度」の入ったメガネをかけながらでなければ、政治・経済のおよそ一切のことを見てはならない、読んではならない、判ってはならない、語ってはならないのかもしれません。別なたとえをするなら、イデオロギーとはまさに「思想の温室」であり、この「温室」の中に脳を置いた状態でないと、政治・経済のことを、言葉にして語るほどには見れない、読めない、把握できない症候群なのかもしれません。

あるいは、たとえば、拉致被害者の救出を訴えるマークであるブルー・リボンのバッジを着けて、占領憲法の改正や新自主憲法の制定を提唱するというこの多重人格症状を、「保守派」「保守系」の大多数を占めているかもしれない連中が自覚できる時は果たしてやってくるのでしょうか。それは拉致被害者の救出を訴えながら北朝鮮のバッジを着けているに等しいのだということ、わかりますか? 拉致被害者の救出を訴えながら北朝鮮のバッジを着けている人間を見て、その人間が本当に拉致被害者の救出を訴えているとあなたは見ますか? アメリカ人は見ますか? ロシア人は見ますか? 拉致被害者の救出を訴えながら北朝鮮のバッジを着けている人間、それが國體護持の実践哲学には程遠い、あるいは真正の保守の思想にも程遠い、イデオロギー信奉者の姿なのであります。

宣長先生の仰った「漢意(からごころ)」=反日思想、非國體思想が、従来の左翼市民系や支那・朝鮮礼賛系の方々の思想や主張のなかにのみならず、国民主権論者や新自由主義者の思想や主張、「尊皇」や「伝統」の看板を出している論者の思想や主張、各種の宗教家の思想や主張のなかにこそ織り込まれていることに、我々は目を光らさなければならないのであります。







国学の系譜に関連して、南出喜久治氏の『國體護持總論』には第何巻か第何章かは忘れましたが次のようなくだりがあります。

この國體護持運動は、江戸期以降における國學などの隆盛もさることながら、山鹿素行の『中朝事實』(文獻3)に始まると云つても過言ではない。山鹿素行は、儒學者であり、かつ、山鹿流軍學の創始者として有名ではあるが、古學(原典主義)の開祖として、『聖教要録』を著して朱子學批判をしたことから幕府の怒りを買つて播州赤穗藩へ配流され、その謫居中に著したのが寛文九年(1669+660)に完成した『中朝事實』である。これは、我が國の古代史を論じたもので、神道と皇統の正統性、普遍性及び世界性が力強く説かれたものである。これは、契沖の『萬葉代匠記』が著された約二十年前のことであり、これが國學發祥の契機となつたと云つても過言でない(文獻3、14、85、245)。

南出喜久治著 『國體護持總論』 より。



これに従えば、国学の系譜を考察するにおいて、山鹿素行の名を契沖よりも少し前に挙げることが適正であるということになろうと思われます。が、小生の考察ないし拓殖の領域が未だそこまで及んでいないので、本エントリにおいては、『うひ山ぶみ』に出現の宣長先生の認識に基づき、契沖を系譜のなかの筆頭としています。






【関連エントリ】

保守の哲学 「本居宣長 直毘霊(なおびのみたま)」
http://oyoyomemo.blog7.fc2.com/blog-entry-155.html

日本国憲法改正という、「保守派」における「シャバ人間主義」
http://oyoyomemo.blog7.fc2.com/blog-entry-139.html



(本エントリの大部分は 2012/06/02 作成。ログインしてる最中に突如、緊急メンテナンスとかで編集を続行できなくなったりしたので、仕切りなおしてアップ。)



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